日本道徳教育学会 神奈川支部
第26回 神奈川支部学習会
2020.9.5
於 ZOOMによる学習会
今回三ツ木先生には、昨年度まで校長として勤務していた「川崎市立鷺沼小学校」での実践をもとに、
特に、「自我関与」→「自分だったらどうする?」という視点を中心にお話をしていただきました。
初めのお話でポイントになった部分を紹介します。
・「他者の関わり」を「自己の生き方」につなげたい。
・学習評価はプロセスが大切。そこで自分との対話が生まれている。ぜひプロセスからの授業評価を。
・自我関与(自分だったらどうする)には「問い」が重要である。
・質の高い授業には「問い」が必要。「問い」の質が高いと子どもたちの思考が自然と深まっていく。
・子どもたちが中心発問を自分事として考えるように。その発言を整理していくのが教師の役割である。
・「多面的な思考」→「共通解」→「自分なりの問い」につながるのでは。
・子どもが自分の課題を紡ぎ出すのは、教師の学習課題しだいである。
・発問をつなげるための二つの工夫 →①話合いの工夫 ②役割演技 を大切にしている。
3年生で「友だちのことを考えよう」というテーマでユニットを組んだ時の二つの実践を紹介していただきました。
①「よごれた絵」 光村図書 (A正直、誠実)
わざとではないが掃除の時間、投げていた雑巾が金賞をとった友だちの絵にあたってしまう。僕は翌日その絵を描いた友だちに謝りに行く。
・本教材で「正直」に接する心を育んでからこそ、ユニットのテーマである「友だち」に向かえると考えた。
・本時の授業の流れ
①日常で「ごめんなさい」という場面を話し合う。
②教材を提示後 自分ならどうするかを考える。
③動作化 雑巾のキャッチボールをする。
④教材から謝る場面を考える。
②「友だち屋」(B友情、信頼)光村図書
キツネは「友だち屋」を始める。クマは1時間100円でキツネを「友だち」として買う。「友だち屋」であるキツネは、本意でないクマの要求に対して商売なので我慢をしていた。一方オオオカミは「友だちからお金をとるのはよくない」と「本当の友だち」としてキツネに忠告をした。オオオカミの話を聴いたキツネは「友だち屋」ではなく、お金をもらわず、いつでも何時間でも一緒にいる「友だち」として自分と過ごしてくれる相手を探すようになる。
〇「自分ならどうする」という考えを常に軸にしながら授業をすすめ
まず子どもたちからは次のような意見が上がった。
友だちからお金を取ってはいけない。
オオカミと出会ったことでキツネは本当の友だちに気付いた。
〇役割演技をしてみたことで次のような意見や問いが生まれた。
友だちがいないから友だちをつくりたい。
商売だからお金をもらうのは当然。
いやなことも我慢しないといけない。
キツネ自身に友だちがいないんじゃないか?
大事なのはお金じゃなくて人だと思う。
友だちと友だち屋の違いは何だろう?
オオカミの言う「本当の友だち」とは?
〇「本当の友だちとは?」という問いに対して共通解として次のような意見が出た。
友だちとは同じ遊びをする。 けんかしても仲直りできる。 お互いの気持ちが分かる。
そばにいてくれるだけでいい。
いつも一緒に話し合える。 困っているときに助け合える。 思っていることを言い合える。
間違っていたらそれを正してくれる。相談・質問に答えてくれる。 命令しない。 一緒にいると楽しい。
自分のことを大切にしてくれる。 正直な人。…など
〇児童の姿より
【授業後 ある児童のワークシートより】
「仲良しの子がいるんだけど、その子は私以外の子は入れたくないという。私にとってその子は本当の友だちなのかな?」
↓
【時後の児童の変容】
「あのあと、本当の友だちは、特別扱いしないんだよと言ったら、その子は他の友だちにもみんなで遊ぼうって言ったんだよ。先生だからあの感想消しておいて。私たち本当の友だちになれたたんだよ。」
【授業後 ある児童のつぶやきより】
「お母さん同士が友だちだけど、ぼくはその子そんなに遊びたくないんだ。ぼくに本当の友だちっているのかな?」
↓
【子どもから手紙より】
「先生すごくうれしいことがあったんだ。4年生になって友だちができたんだよ。絵が上手だねって褒めてくれたんだ。すごくうれしい。」
・上記のように自分の中に「問い」があると、道徳の授業後も気持ちの中で残っていく。そして生活のなかで答えが見つかることがある。
・ユニットを構成する際、教材、テーマ、価値が児童に関連するものを設定すると有効に作用する。
・児童のとっての評価→自分の成長に気付き意欲の向上につなげていく。
教師にとっての評価→授業の成果・課題、指導方法の改善につなげていく。
・児童の内面は分かりにくい。→児童自身はきちんと考えをもっている。教師はそれを外に出せるようにする。
・振り返りの中の「人間としてよりよく生きようとする人格的特性」や「これからの生活で生かそうとしていること」、「自分を見つめている客観性」などの記述を取り上げ励ましていくことが大切。
・「子ども」と「教師」の「認め合い」は大切であるが、「子ども」と「親」の関係においては、それがさらに重要だといえる。まず親から認められる事が子どもの人格形成にとって大きい。
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質疑応答&フリートーク
Q話合いについて。中学年ではどうするとうまくいくのか?
Aまず、先生と全体での話合いをする。「好きな食べ物は何ですか?」のようにテーマは何でもよい。
子どもたち同士で「無理のない」話合いをする。好きなキャラクターについてなど、困らない話合いが大切。ただそれだけでは深まらないので、思考をさらに深めるための教師の「投げかけ」が大切である。
無理のない話合いをできる環境をつくっておく。そのためには3人グループの話合いがよい。2人が話しているところにもう1人が、相槌を打ったり、意見を言ったりすることができる
画用紙を配って「意見を何でも書いていいよと」いうと子どもたちで少しずつ整理できるようになってくる。
Q話し合いたくなるような問い、自分事の問いはどのようなものか?
A「自分だったら」という視点を大切にしながら、「問い」は子どもたちの声から作らないといえない。「問い」はたくさんあればいいわけではない。共通解を出すには子どもたちの疑問をまとめていく必要がある。
そのためには主題を大切にしていく必要がある。そこがぶれなければその主題にあった「子どもの声」をきちんと拾うことができる。
Q友だちとの違いや子どものつぶやきをキャッチするセンスどのようにすれば身につくか?
また、①「よごれた絵」の授業ではどのような発問をしたのか?
A役割演技をさせた。実際に雑巾をポスターに投げつけたところ、思っていたよりも紙が汚れたので、子どもたちも驚いていた。汚れた雑巾が実際に絵にあたってしまったら、本当に謝らないという気持ちに子どもたちはなった。
発問の流れとしては
「日常でどんな時ごめんなさいという?」→「雑巾が実際に当たってしまったらどうする?」→「その友だちにどのように謝る?」といった流れで発問をした。
「ごめんなさいをどの場面で言うかが大切ではないか。」「早めが謝る方がよいのではないか。」という自分の生活に結び付けた答えがでてきた
Q役割演技では演者をどう選ぶか?フロアと演者の関係をどうつなげるか?また道徳ならではの「教師の力量」とは?
A役割演技は全員にやらせたい。子ども対教師の役割演技もよくやっている。2人で役割演技をすると全体で演技する子を指名がすることができる。その際、完璧でない演技の方がよい。完璧だとその演技の模倣になってしまう。グループ4人に同じことをやらせることもあるが、今回はペアでやらせて教師が指名をした。
教師の力量については・・・、
道徳の授業では「ねらいに沿った授業にすること」を大切にしている。教材は最低十回読んで、引っかかる言葉が、その教材のポイントである。子どもも教師も「楽しいと思える授業」が大切。
(参会者感想)自分だったら、雑巾を投げる「よごれた絵」の話だったら、「もし絵が汚れなかったらどうしたのか」と子どもに問いかけてみたい。「謝らなくてもいいのでは?」「そういう問題ではないんじゃないか?」といった50パーセント50パーセントの葛藤を考えさせたい。
Qもう一度授業をするなら、どこを改善したいか?
Aクラス全員の振り返りを見た時に、もう少し考えを書かせたかった。先ほどご意見いただいた「大して絵が汚れなかった場合」そういうことももう少し考えさせたかった。「正直、誠実」いう内容項目に対して子どもがどれくらい分かっているか、そして子どもがどう動くのかを知りたい。
「ともだち屋」は教材の力が大きかったといえる。そのなかで「言いなりになって我慢をするのは友だちじゃないんだよね。でも人付き合いの中で、時には我慢は必要じゃないかな?」という子どもの言葉が気になった。そこをもう一段深められたらとも思った。
また本時では「友だちってどんな人?」という発問をしたが、「友だちではない人ってどんな人?」という質問をしてみたい。
(参会者感想)「問い」がよいと思考の質が高まる。教科書から今日はどんなこと考えたいと子どもに投げかけた時、子どもの問いに対する感覚が高まっていることで、よい問いが生まれる。また「自我関与」が話題になったが、「相手の気持ちを考えること」も自我関与につながるのではないか。
Qしかし今回の実践のように児童がうまく生活へ還元できればいいが、「自分なら〜」と考えすぎることで、うまくいかないこともある。課題を自分事にしすぎることで、授業で正しいことや本音を言いづらい雰囲気になってしまうのではないかという危険性もあるように感じる。
A今回2つのクラスで授業を実践した。「よごれた絵」の授業をやった時、もう一つのクラスは模範解答のような答えしか出なかった。そこで「じゃあこの話はこの話として、もしこの話がこのクラスで起きたことだったらどう?」「グループでこの話の続き作ってみよう。」と子どもに課題をふって、教材と関わらせてみた。
それに対して「友だち屋」は「教材そのものがもつ力」が強く話し合いの軸がぶれなかった。
もし自分事にしにくい場合は「みんなだったら〜?」「この教室の友だちだったら〜?」と違う質問を投げかけてみてはどうか。
(参会者感想)「自分事にする」という話が印象的だった。内容項目、発達段階、クラスの実態にもよって意見は変わってくる。自分だったら「よごれた絵」では「もし仲よしの友だちの絵だったらどうするのか?」「友だちが怒っていなかったらどうしたのか?」と聞いてみたい。
Q役割演技は、高学年の子どもたちでもどれくらい実践できるのか教えてほしい。
(参会者感想)・モラルスキルトレーニングは中学校でも効果的。「缶コーヒー」という教材では電車内でマナーの悪い人に注意する役割演技をやってみた。中学校でもぜひ挑戦していただきたい。
・最近はレンタル家族、レンタル友だちなど、「お金を出して成立する人間関係」にもニーズも出ている。中学校、高校生であれば、そのような「新しい友だち観」について考えることもできるのではないか?改めて「パッケージ型ユニット」にすることで、問いが深まると感じた。今回紹介された光村図書では「よごれた絵」「友だち屋」「日曜日の公園」の順で、教材の並べ方にもストーリーがある。
Q何も考えず教科書の順番に通りに教材をやってしまうことがあるが、今回のように教科書の順番通りにやることにも意味がある。今回三ツ木先生はどういう意図でこの順番にしたのか?
Aもともと自分は「友だち屋」がやりやたかった。その際この教材を一本でやるのはどうかと思い、意図的に4つの視点のなかのA「主として自分自身に関すること」の項目をやりたいと思っていた。ちょうどその前の教材に「よごれた絵」(A正直、誠実)があった。
(参会者感想)「共に考え共に語り合う〜」の提案を聴き、今から62年前の道徳特設の時から変わっていない理念を感じた。最近の道徳授業をみて、導入のところか終末に至るまで価値に終始する授業が多い。しかし私たちは「他者とよりよく生きるための基盤となる道徳性」を養うことがねらいである。「他者とよりよく生きる」というところまで踏み込むことが大切なのでないか。
A「価値から入って価値で終わるのでは足りない。」人生はその通りで行くものではない。失敗があったり上手くいかなかったりする。だからこそ「こうして生きたいな。」「よりよく生きたい」と余韻が残るような問いかけをしたい。
〇田沼支部長 まとめ
・問いとはその場限りのものではいけない。人間は生きている限り「問い続けて」いかなければいけない。それができるのが道徳の授業ではないか。だからこそ「パッケージ型ユニット」が必要である。
・「話合い」と「語り合い」の違いを明確にしたい。「話合い」はその先に「共通解のゴール」を求めている。しかし道徳は場を共有しながら、同一の課題をそれぞれが個別のゴールを目指して「語り合う」スタートフリー、ゴールフリーの時間である。だからこそ、自分だけでは解決できない「個別の問い」をみんなで持ち寄って、解決するための「共通の課題」を設定すべきなのである。
・自分事の考え方はなかなか語りにくい。だからこそ、手品師や赤鬼といった登場人物に自分を重ね合わせる。
・道徳的な価値は変わらないが、その道徳的価値の運用は時代によって異なる。不変な価値を現代の道徳的問題に照らしながら考えていくかが道徳科の授業ではないか。
次回は12月26日(土)に日本道徳学会神奈川支部
研大会を開催予定です。